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帯石観音の縁起
弘仁二年(八一一)年、弘法大師は、千手観音、脇士として不動明王、毘沙門天の三尊を自手彫刻、観音堂に安置され、さらに奇石「帯石」に「南無阿弥陀仏」の六字の名号を投筆、その下に子安の地蔵尊を自刻安置された。(この三尊は、戦火に遭い現存しない。現在の本尊は黄金の一夜美人の千手観音)
この名号は、金色に輝き、昼夜を問わず遠く伊予路からも見え、船人達の指針となって礼拝されたという。摩滅を恐れた石工が名号を彫ったので、その光は消えてしまったと言い伝えられている。さらに弘法大師は、この岩に帯の形を刻まれ、
「懐胎の者がこの岩の図を帯にして信心なる時は、その産安し。」
と後の世の女人安産を祈願された。以後、この大師入魂の因縁により、かつては岩の苔をお守りとし、今日は安産守り、安産岩田帯祈願の観音様として、県内外から広く信心尊嵩されている。
当寺は弘法大師の開基である。帯石の奇石あるをもって「帯石山」と号し、法華経普門品(観音経)の高徳を示す仏説により、「普門寺」と名づけられた。
「帯石観音」第四番札所
室町時代の大内二十四代、大内弘世は山口に城をかまえ、京洛文化を取り入れる等、西の小京都を自負していた。弘世は十四世紀半ば、西国三十三観音を模して「周防三十三観音」を勧請した。五重塔で有名な山口の瑠璃光寺に馬に乗った大内弘世の銅像がある。
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