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歴史と宝物

●略年表

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●宝物

法華経

 江戸時代の火災と明治維新の兵火(四境の役)により、普門寺の什物・世牌・宝物等は焼失した。現在、法華経八巻、弘法大師が護持された御剣法器が厳存されている。法華経は建武の中興のおり千種左中将源朝臣忠顕公が戦勝を祈願して奉納されたものである。
紺紙に金泥で書写されており、三拝して一字を書写するといわれている。

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一巻末「於伯州船之上山東夷誅伏為海内静謐依天気書写之千種左中将源朝臣忠顕奉」
(「伯耆の国ー鳥取県西部ーの船上山に於いて東国の武士を討ち滅ぼし国内を静かで穏やかにするために天皇のご意向によって之を書写する。千種左中将源朝臣忠顕 )

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「法華経」は八巻、二十八品の構成。
 上の部分は有名な観音経の偈。巻第八 二十五品。

巻第八 巻末。
「夫法華者如来出世之素懐衆生作佛之要路也 御願者以此功徳現世拂衆災於千里満諸願於一室當来滅無始之罪障菩提 之妙果兼亦諸檀施主現世安穏後生善處自身現當二世大願令成就給事」

普門寺に残る提灯箱
 普門寺の紋は楠木正成家と同じ菊水。建武の中興との関わりが予想されるが、いわれを確かめる資料は焼失したのか、見つからず。

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普門寺ご開山西湖良景禅師墓碑 暦代住職墓碑 
左に久留島主膳通方の墓碑

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村上水軍の末裔 久留島通方の墓碑
 

遭難
 寛文三年(一六六三)三月五日。豊後の国、森藩(大分県の玖珠町)から東方に向かう途中、沖家室沖で遭難。家臣ともども帯石の普門寺に葬られた。別府湾の「日出」から船出、沖家室沖で遭難した。関が原で西軍に味方しながら、豊後の森に一万四千石の地を与えられたのは、初代「康親」の妻の伯父の福島正則や既知の大阪商人の口入により、家康に仕えることになったからという。瀬戸内の「海賊衆」のなかで大名に取り立てられたのは久留嶋家だけである。森藩の初代藩主、「来島康親」は村上三島水軍(能島・因島・来島)の来島の村上家の六代目。能島の「村上武吉」と共に、毛利元就に味方し、宮島の陶氏を攻めた四代の「村上通康」の孫。方は康親の孫。

通方の年齢
 森藩二代「久留嶋通春」の長男が「通清」であり、その弟の「通方」は五男。事故は、長男「通清」が藩主となって八年目のこと。 「通方」について没年等の資料がなく、年齢が分からないが、兄(四男)の「通向(みちとお)」の年齢から推測して、遭難した寛文三年には「通方」は二十七歳以下となる。

帯石の墓碑の建立
 森藩八代の「久留嶋伊代の守通嘉(みちひろ)」が大阪より取り寄せて「通方」の墓碑の石碑を寄進している。(「注進案」)

久留嶋の子孫
 森藩は十二代で明治を迎える。玖珠町には子孫はいない。十四代の頭首が童話作家久留嶋武彦。子供の日の提唱者。玖珠町には「久留嶋武彦記念館」の他に「童話の館」もある。「こども映画祭」、五月の「日本童話祭」「童話の里夏祭り」等童話に関わるイ ベントがある。

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